学業という視点で自分の人生を振り返る②

予備校時代〜

柔ちゃん(田村亮子、今は谷亮子)の師匠の師匠が寮長をしているという寮に入った。当時は寮の中でも一番しごきがキツいと有名であった寮にだ。この時は、本気で勉強しようと思って、あまり友達を多く作るつもりもなかったが、高校時代に塾で一緒だったY君(今は彼も医者をしている)が先に来ており、仲間を作っており、僕もそこに入れてもらった。自分も含めて5人の仲間がすぐにできた。5人中3人は医学部志望、1人は獣医学部、もう1人は忘れた。予備校まで5.5kmの道を自転車で毎日5人で通い、土日も一緒に過ごした。

寮の決まっているスケジュールとしては、朝7時に起床、朝ごはん、8時には予備校に出発、夕方帰ってきて19時から22時まで中央の自主勉強室で勉強、23時半に就寝だったと思う。なので、限られた時間の中で人よりも多く勉強するために、僕は朝4時に起きて7時まで勉強、夜は19時から23時半までがっつり勉強していた。朝4時に起きるのは100人近い寮生の中で僕だけだった。朝4時から起きて勉強しているのは僕だけなので、寮長は僕の体調をいつも気を遣ってくれて声をよくかけてくれていた。寮長は礼儀のなっていない寮生や夜遅くに抜け出したり、夜遅くに帰ってくる不良寮生をよく柔道技で投げ飛ばしており、よく廊下からビターン、ビターンと鈍い音がしていた。

基本的に予備校から宿題というのは無かったので、自らの手で問題集を選びやっていくしかなかった。数学は青・黄チャート、「細野真宏の〜が本当によくわかる」シリーズをやっていた。英語は2,3冊の文法や熟語の問題集をひたすら繰り返した。日本語から英語に文章を英訳するというトレーニングもした。化学、物理も同じ程度の数の問題集。国語はもう忘れた。つまり、大きく手を広げずに手元にある問題集を完璧にマスターすることを考えたのであった。ほぼ1年、朝4時に起床して勉強するという生活を繰り返した。周りには恋愛をする人もいたが、僕は女子に興味すらもたなかった。医学部に行けなければ、すなわち自分のしたいことができない(医者になれない)人生なら死ぬのと同じ、とまで考えていたからだ。その覚悟だけは今でも鮮明に覚えている。

そして迎えたセンター試験。結果は673/800。確かに、1年で76点伸びたが、700点は最低越えなければいけない壁と思っていたので、やってしまったと感じた。しかし、落ち込む時間もないまま、二次試験でどこを受けるか考え、すぐに勉強をしなければならない。去年落ちた地元の医学部を再度受験することにすぐ決めた。

そして・・・あっけなく落ちた。

切り替えが大事だ、後期試験が待っている。まさに今通っている予備校がある県内の医学部を受けることに。しかし、望み薄しであった。後期試験は小論文だけであったからだ。おそらくセンター試験での点数がかなり大きいと思われた。小論文の内容は、あまり覚えていないが、そのうちのひとつは水を使って髪の毛をセットできるがその時にどうして水で髪の毛がセットできるか述べよ、みたいな内容だった。訳分からんかったが、分子結合とかなんやらかんやら書いたような気がする。もちろん小論文など何の手応えも無かったので、すぐに母親に連絡し、次の寮を探す手配をした。両親が来てくれて4月からの予備校の寮をどこにするか決めることにした。今の寮も良かったが、気分転換をしたかったのだ。

そして4月からの寮を決めて、3月中旬か下旬であったか、おばさん(母の妹)が住んでいるタイに傷心旅行をすることに。おばさんはタイと中国人のハーフの夫と結婚し子供も4人いた(当時はまだ3人だったか)。母親と弟と3人でタイに行き、親父は仕事で日本に残った。従兄弟たちにも会えて楽しい時間を過ごし、4月からの受験勉強に向けてしっかり充電した。その時、ホテルのプールで弟が溺れてしまい(深さ2.5mとかだった気がする)、助けようと飛び込むも自分も一緒に溺れてしまい、従業員が助けてくれた。そんなこともあったなと、今書きながら思い出した。ちなみに弟は幼稚園の頃、実家の目の前の川にも落ちて、当時小学校5年生だった僕が飛び込んで助けようとするも岸が高くて上がれず結局近所のおじさんが2人とも引っ張り上げてくれた。溺れている人間を助けるのは本当に難しいものだ。

そうして、ホテルの部屋でおばさんたちとくつろいでいた頃、1本の電話が鳴った。おばさんが電話を取って、「あら、○○君からよ」と。親父からだった。母親に代わり、母親が「えっ?えっ!」と繰り返している。

親父は「おまえ、受かっとるぞ!」と。

合格通知が家に届いたらしい。まさか受かっているとは全く思っていなかったので、嬉しいよりも驚いた。感動で泣きそうになったが、目の前で母親が泣き崩れてしまい、僕はそれを見て逆に涙が出なかった。泣いている人を見ると逆に冷静になってしまうのは僕だけではないはずだ。今自分が親になって、あの時のことを思い返すと、泣き崩れた母親の気持ちがわかる気がする。自分のことよりも嬉しい出来事だったのかもしれないと。

何はともあれ、予備校時代の1年がなんとか医学部合格へと導いてくれたと思う。しかし、後期試験は小論文なので多分に「運」要素も相当大きかっただろう。効率は悪かったかもしれないが、勉強に一番時間を割いた1年だった。後にも先にもこれ以上勉強を励んだことはない。国家試験や専門医試験なんかもここまで頑張らなかった。

話は変わるが、最近興味深い記事を見つけた。「note」なので見る人が限られるかもしれないがリンクを残しておくこととする。これから「医師」を目指すのであれば一読しておいて損はない、非常に興味深い内容である。

https://note.com/shameofirongate/n/n3e9b072b0a2c

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