「課題の分離」はアドラーの心理学からの言葉ですが、子供の扱いは難しいですね。先日、16歳の少年が交通事故で両仙骨、両恥骨、右鎖骨骨折で入院になりました。単車での単独事故で相手がいなかったのが幸いでしたが、持ち物にIQOSあり。未成年のタバコ持参は珍しくないですが、搬送時から看護師にタメ口、目上に対する態度じゃない、など早々にスタッフから不評を買っていました。
入院7日目で室内で喫煙、その次の日は20時過ぎて病院内で友達2人と面会(面会は原則禁止です)。強制退院案件ですが、骨盤が骨折しておりそれも難しいところでした。他人ながら、割ときつめにしかったのですが「ぬかに釘」状態。すぐに揚げ足取りをしてきたり、言い訳したり。正直、こいつはだめだなと思い、診察も最低限で関わりを減らし、無感情で接することにしました。
患者の場合だとこういう風に診察回数を減らす、ある程度割り切って接する、など自分のストレスを減らすことは可能ですが、自分の子供となるとそういうわけにもいきません。
例えば、宿題もせずにSwitchのフォートナイトをしたり、YOUTUBEを見たりという行為は親としては認めたくないのです。やることをやってからならいいよと伝えても不機嫌になり、結局宿題も寝る時間ぎりぎりになってしまう、逆に先にゲームをさせてもすぐに宿題に取り掛からない、ひどいときはそのまま寝てしまう、態度が悪くなる、などの行為が続いていました。
確かに宿題は子供の課題であって、私の課題ではありません。最終的に宿題をしない、勉強をしない、その結果困るのは誰か?それは子供自身でしょう。しかし、それで親が困らないのかといえば、親も困るわけです。「課題の分離」はある意味ではシンプルですが、実行するにはかなりの「勇気」が必要になります。
子供が勉強しない→将来の選択肢が狭まる→子供が病む→面倒は親が見る
なんてことになれば他人事ではなくなるわけです。もっと、細かくいうと
子供が勉強しない→行ける高校がない→同級生から勉強も運動も遅れて自分に自信が保てない→病む→ニート
親の立場で考えるとこういうことを想像してしまうのです。昨日は小学校の卒業式で一つの節目を迎えました。夜まではいい雰囲気でした。しかし、寝る前に2月に実施された小学校全国学力試験なるものを発見してしまいました。
国語、算数の偏差値が39!・・・
ふえっ!と思いましたが、「もうちょっと真剣にしないといけないなあ」くらいにソフトに言いました。そして3月下旬に塾のクラス分けがあり、それに向けての勉強もしないといけないのでこれこれをしたほうがいいと、具体的に指示を出した後に・・・
急に子供が不機嫌になって、いつも調子で歯向かってきたのです。それにプッチンきてしまい、大きな雷を落としてしまいました。しかるのも嫌なんですよね、でも言わざるをえない。アドラー心理学からすると、しかるために「怒りの感情」を利用した幼稚な行為、ということになりますが。これが他人の子であればなんとも思わないんですが、なかなかですね・・・
上述の16歳の患者ですが、2週間経つとわりと大人しくなり、リハビリもちゃんということ聞いてがんばっているようで、人間は「生物(なまもの)」だから、いいように変化するのも見守らなきゃなあと反省したり。次回は、昔のことを振り返りながら記録を残すようにします。自らの反省と今後の課題を見つけるために。ちなみに「嫌われる勇気」は2013年に発売されて2014年の6月ごろ読み終えていた気がします。その時は長男もまだ5歳でしたが掛け算などできていたのでなんの心配もしていなかったんですけどね。