つぶやき

4月の転勤に向けて、不動産購入の手続きもほぼ終わり、あとは論文が通ってくれればいいのだが、それはまだ時間がかかりそう。しかも最近、救急外傷に対するモチベーションが下がってきている。

そもそも大学院に来た理由が不純であった。重度な外傷患者が搬送される病院で8年間も働いていたから、外傷治療に興味を持ち、骨盤輪・寛骨臼骨折を将来的にオペできるようになりたいと思っていた。そして、骨盤輪・寛骨臼骨折がオペできる病院、というか、そういう患者が搬送される病院は基本的に地域の中核を担う総合病院である。中堅以降で大きな病院で働いたり、部長職を得るには「医学博士」の称号が必要なことが多い。特に大学の関連病院で働くとなると。それじゃあ、「医学博士」を取るため大学院に入ろう!というのが動機であった。そのためには4年間の研究(必ずしも4年間かけなくてもよいが)で英語の雑誌に論文がacceptされ、かつ大学の審査で卒業を認められる必要がある。

しかし、私は研究という地道で少しずつ結果を積み上げ、しかもそれがうまく結果がでるかどうかわからないことをやる、ということが極めて苦手で好きではなかった。「臨床」という、手術や投薬で患者が元気になるのを結果として毎日のように受け取ることの方が十分達成感があり、満足していたのだ。なので、この4年間は非常にメンタル的に厳しい状態であった。主治医として患者を持つことはなく、手術の執刀もほとんどなくなった。しかも、研究内容は一番避けたかった「腫瘍」の研究である。もともと腹部外科志望であったが、初期研修時代に外科を回っている時、ちょうど小学・中学生くらいの子供を持つ父親や母親が胃がんや大腸がんで亡くなるのを何例も目の当たりにし、「腫瘍」の治療に生涯をかける気力はなくなっていた。毎回、厳しい説明を家族に行い、手術がうまくいったようにみえても、ミクロの転移はその時には見えず、3ヵ月から半年後とかに訪れる。メンタルが持たないと思った。

初期研修2年目の秋になっても、進路が決まらず、思い切って外科の先生に聞いてみた。

私「先生が研修医時代に戻れるなら、何科を選択しますか?」

外科Dr「ん〜、整形かなあ。手術も早めに終わるし、患者が死ぬこともほとんどないし。湿布出したらだいたい治るやん。外科の手術は長いし、腰が痛くなるし、実際コルセット巻きながら執刀してるし。きついのはきついで。でも、そんなん聞いても先生は外科に来てくれるんやろ(笑)」

後日、もともとテニスで普段から交流していた整形外科部長に相談した。

私「先生が研修医時代に戻れるなら、何科を選択しますか?」

整形外科部長「整形やなあ。もともと興味あったし。なんや、まだ決まらないんだったら、俺とシングルスして負けたら整形外科に入れよ。」

その週末にテニスのシングルスをした。0-6でスコスコに負けた。部長は西医体3連覇した時のランキングNo.1だったのだ。年は50前で体力もないだろうとナメていた。私の進路は決まった。

そんな動機で、腫瘍を避けるように入った整形外科。しかし研究は「腫瘍」。自分の気持ちと矛盾することに4年間も向き合うことは厳しかった。しかも、4月からの勤務はなんと「◯◯がんセンター」。

もちろん勉強になるのは間違いないが、自分の予定していた進路とは大きく異なり、これでいいのかという思いが常に心をよぎる。ふと、このまま自分の働き先を人(医局)に決められる人生でいいのかと思う。この1年がいろいろな転機になりそうである。私はもう37歳、しかしまだ37歳である。やろうとおもえば無茶もできる年齢だ。じっくり考えて過ごそうと思う。その際、他人の目は気にしないようにしよう。自分の人生と家族に責任を取れるのは自分だけなのだから。

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